勇気にもハードとソフトがある [コミュニケーション]
勇気などという言葉は、今頃はあまり流行らないようである。
若い女性が心に描く理想の男性の特性として、「優しさ」が一番にあげられたりするくらいだから、「勇気ある男性」などというのは、あまり魅力がないのかも知れない。
しかし、よく考えてみると、人間は「優しく」あるためには勇気を必要とすることもあるのではなかろうか。
このことを知らないために戸惑っている人もいるように思われる。
ある五十歳代の男性が次のように言われたことがある。
それまでは仕事の方にほとんど心を奪われていて家庭のことを顧みることなどまったくといってよいほどなかった。
ところが、子どもの問題に端を発して、はじめのうちは子どもが悪いと一方的に非難していたのに、話が逆転してきて、「だいたい、お父さんは、あまりに自分勝手に生きている」などと子どもが言い出し、妻も何となくそれに同調している感じである。
子どもが火付け役のようなもので、子どもの問題と思っているうちに、結局は親の問題、つまり、夫婦の関係の在り方を考え直すべきだと思うようになった。
反省すると、自分は妻がいろいろと苦労してきたことに対して、当然のように思っていたが、これは心から感謝すべきことだ、などと思えてくる。
ところが、礼を言おうとしても、口まで出てきている言葉を吞み込んでしまって、「有難う」とか「よくやってくれるね」などということが言えないのである。
こんなことを話しているうちに、その人は「自分の妻に正面から礼を言うのは、勇気のいることですね」と言われた。
このようなときに「勇気」と言われたので、何だかおかしいと思ったが、よく考えてみると、こういうところこそ「勇気」という言葉がピッタリかも知れないのである。
「勇気」とは恐ろしいとか怖いとか感じることに立ち向かってゆくときに言われることである。
一番わかりやすいのは、戦争のときに命を失うおそれがあるのにもかかわらず、突撃してゆくときなどであろう。
それは見た目にもすぐわかる。
しかし、そのような「突進力」は、勇気のハードの面だけではなかろうか。
やたらに突撃して死んでしまうだけの行為を「勇気」というのを、保留したくなってくるのは、それはハードだけで、ソフトが開発されていないからではなかろうか。
それにしても、妻に礼を言うくらいで、何が「勇気」がいるのかと言われそうだが、それは、その人の生きてきた文化や社会の在り方によって違ってくるだろう。
たとえば、アメリカ人なら、そんなのは日常茶飯事であろう。
しかし、日本の男性で伝統的な生き方にどっぷりつかってきた人は、男が女に礼を言うということは、その人の「人生観」の解体につながるのである。
解体、つまり死の恐怖の伴なうことなのだから、そこに「勇気」が必要なのも当然である。
さて、問題解決のための「ソフト」であるが、それはどうなっているのか。
まず、そのような行為に「勇気」が必要と認識したこと自体が、ソフトの開発の第一歩ではなかろうか。
馬鹿げたことだがやらぬと仕方ない、と思っているのと、「勇気ある行為」と思うのとでは、取り組む姿勢が異なるであろう。
それは、外見的にはやさしいことかも知れない。
しかし内面における対決という点で、それは「恐ろしい」ことなのである。
それは単に「妻に礼を言う」ということではなく、自分の今まで生きてきた人生観や世界観の改変をさえ迫ることなのである。
そこに、内面の機構のあらたな開発、つまり、ソフトが必要になる。
妻に対して正面から礼を言うのが照れくさい、と思う人は、子どもと話をしているときに、「お母さんもよくやっていると思うよ」と言うことができるかも知れない。
あるいは、誰か第三者がいるときは、その人に向かって言うような形で、妻と間接的な対話ができるだろう。
日本の夫婦は二人で会話するのが下手だから、このような「工夫」が必要である。
そのような工夫を考え出してゆくのも、ソフトの開発と言えるのではなかろうか。
しかし、これらのことを行なうにしろ、退避の手段として考えるのではなく、あくまで対決への勇気を支えとして行なっていることが大切で、さもないときは、ちゃちな工夫はすぐに叩き潰されてしまうことだろう。
勇気に支えられていない「優しさ」は、どうしても「弱さ」の方に近づいてゆく。
このために、自分は男らしくて強いと思い込んでいる人のなかには、優しいことを恥と思い込んでいる人もある。
しかし、以上述べてきたことから、優しさにも勇気が必要なこと、あるいは、勇気にもソフトとハードの両面があり、その両面をもっていない勇気は、怒気とでもいうべきものに下落してゆくと思われるのである。
若い女性が心に描く理想の男性の特性として、「優しさ」が一番にあげられたりするくらいだから、「勇気ある男性」などというのは、あまり魅力がないのかも知れない。
しかし、よく考えてみると、人間は「優しく」あるためには勇気を必要とすることもあるのではなかろうか。
このことを知らないために戸惑っている人もいるように思われる。
ある五十歳代の男性が次のように言われたことがある。
それまでは仕事の方にほとんど心を奪われていて家庭のことを顧みることなどまったくといってよいほどなかった。
ところが、子どもの問題に端を発して、はじめのうちは子どもが悪いと一方的に非難していたのに、話が逆転してきて、「だいたい、お父さんは、あまりに自分勝手に生きている」などと子どもが言い出し、妻も何となくそれに同調している感じである。
子どもが火付け役のようなもので、子どもの問題と思っているうちに、結局は親の問題、つまり、夫婦の関係の在り方を考え直すべきだと思うようになった。
反省すると、自分は妻がいろいろと苦労してきたことに対して、当然のように思っていたが、これは心から感謝すべきことだ、などと思えてくる。
ところが、礼を言おうとしても、口まで出てきている言葉を吞み込んでしまって、「有難う」とか「よくやってくれるね」などということが言えないのである。
こんなことを話しているうちに、その人は「自分の妻に正面から礼を言うのは、勇気のいることですね」と言われた。
このようなときに「勇気」と言われたので、何だかおかしいと思ったが、よく考えてみると、こういうところこそ「勇気」という言葉がピッタリかも知れないのである。
「勇気」とは恐ろしいとか怖いとか感じることに立ち向かってゆくときに言われることである。
一番わかりやすいのは、戦争のときに命を失うおそれがあるのにもかかわらず、突撃してゆくときなどであろう。
それは見た目にもすぐわかる。
しかし、そのような「突進力」は、勇気のハードの面だけではなかろうか。
やたらに突撃して死んでしまうだけの行為を「勇気」というのを、保留したくなってくるのは、それはハードだけで、ソフトが開発されていないからではなかろうか。
それにしても、妻に礼を言うくらいで、何が「勇気」がいるのかと言われそうだが、それは、その人の生きてきた文化や社会の在り方によって違ってくるだろう。
たとえば、アメリカ人なら、そんなのは日常茶飯事であろう。
しかし、日本の男性で伝統的な生き方にどっぷりつかってきた人は、男が女に礼を言うということは、その人の「人生観」の解体につながるのである。
解体、つまり死の恐怖の伴なうことなのだから、そこに「勇気」が必要なのも当然である。
さて、問題解決のための「ソフト」であるが、それはどうなっているのか。
まず、そのような行為に「勇気」が必要と認識したこと自体が、ソフトの開発の第一歩ではなかろうか。
馬鹿げたことだがやらぬと仕方ない、と思っているのと、「勇気ある行為」と思うのとでは、取り組む姿勢が異なるであろう。
それは、外見的にはやさしいことかも知れない。
しかし内面における対決という点で、それは「恐ろしい」ことなのである。
それは単に「妻に礼を言う」ということではなく、自分の今まで生きてきた人生観や世界観の改変をさえ迫ることなのである。
そこに、内面の機構のあらたな開発、つまり、ソフトが必要になる。
妻に対して正面から礼を言うのが照れくさい、と思う人は、子どもと話をしているときに、「お母さんもよくやっていると思うよ」と言うことができるかも知れない。
あるいは、誰か第三者がいるときは、その人に向かって言うような形で、妻と間接的な対話ができるだろう。
日本の夫婦は二人で会話するのが下手だから、このような「工夫」が必要である。
そのような工夫を考え出してゆくのも、ソフトの開発と言えるのではなかろうか。
しかし、これらのことを行なうにしろ、退避の手段として考えるのではなく、あくまで対決への勇気を支えとして行なっていることが大切で、さもないときは、ちゃちな工夫はすぐに叩き潰されてしまうことだろう。
勇気に支えられていない「優しさ」は、どうしても「弱さ」の方に近づいてゆく。
このために、自分は男らしくて強いと思い込んでいる人のなかには、優しいことを恥と思い込んでいる人もある。
しかし、以上述べてきたことから、優しさにも勇気が必要なこと、あるいは、勇気にもソフトとハードの両面があり、その両面をもっていない勇気は、怒気とでもいうべきものに下落してゆくと思われるのである。
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