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お腹を動かす呼吸には二種類ある [コミュニケーション]

坐禅の呼吸法のことを、「腹式呼吸法」とよく表現します。
これがじつは混乱と誤解の原因です。

腹式呼吸というのは、胸式呼吸と対をなす概念で、お腹を大きく動かす呼吸と一般に考えられます。
ところが、お腹を動かす呼吸には、二種類あります。
横隔膜呼吸と腹筋呼吸ですが、両者はまったく反対の動きをします。
そのことを丁寧に説明します。

坐禅の呼吸法と睡眠時の呼吸の比較
坐禅の呼吸法は腹筋を使った呼吸で、呼気からはじまる。 吐いて、吐いて、吐き切ると、フイゴが膨らむように呼気が起こる。 睡眠時の呼吸は横隔膜を使い、吸気からはじまる。 呼気は横隔膜の収縮が止むと自然に起こり、腹筋の収縮を伴わない。

大切なポイントは、横隔膜も腹筋も収縮していない状態をまず理解することです。
このとき、肺には約2400mlの呼吸ガスがたまっています。
これを機能的残気量(FRC)レベルと呼びますが、名前の意味は忘れてください。
このFRCレベルは呼吸をしていない時点と理解してください。
ここから吸気あるいは呼気がはじまります。

もし、横隔膜が収縮すると、内臓が圧迫されてお腹が膨らみ、肺に空気が入ります。 これが呼気です。

横隔膜は内臓と肺とのあいだにドーム状に張っている薄い筋肉です。
横隔膜の収縮が止むと、とくに腹筋を収縮させないでも、自然にもとのFRCレベルに戻ります。
これが自然な呼気です。
腹筋を使わない呼気というのは、バネが引き伸ばされて、もとの位置に戻る原理で発生します。
以上が、横隔膜呼吸です。

逆に、FRCレベルから腹筋を「意識的に」収縮させますと、今度は、お腹が締まり、内臓が圧迫されます。
すると、横隔膜ドームが上げられて、肺を圧縮し、肺から空気を押し出します。
これが「意識的な」呼気です。

自然な呼気と「意識的な」呼気では、バネを引っ張るのではなく、圧縮する方向に動かすことになります。
腹筋の収縮を止める(バネの圧縮を止める)と、自然に、フイゴが膨らむように、肺に空気入ります。
お腹ももとの位置に自然に膨らみます。
これは吐き切った後の呼気ということになります。
この場合、横隔膜の収縮は必ずしも必要ないのですが、一生涯働き続ける筋肉のことですから、フイゴが膨らむときでも、ある程度収縮します。
横隔膜ほど律義者の筋はありません。

以上が、腹筋呼吸です。
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おやじギャグにも愛想笑いで付き合おう [コミュニケーション]

あなたの職場に、
「コピーはA4用紙でエーヨン」
「ドット・コムって、どこが混むんだろうねぇ」
などと、いわゆるおやじギャグを連発する上司はいませんか。

あるいは得意先の担当者のなかに、商談がまとまったところで、
「ものはショウダン(相談)ですが・・・」
とおっしゃる人がいたりするかもしれません。

そういった場合、どんなに寒いギャグでも、使い古されたネタでも、ひとまず笑いましょう。 もちろん爆笑することは難しいでしょうから、クスッという程度でかまいません。 大切なのは「聞こえました」という合図をすることです。

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おやじギャグが出るのは、話し手の機嫌がいいときです。

せっかく上機嫌になっている上司や取引先の相手を、無視や黙殺で不機嫌にさせたことはありませんか。
あなたが、ほんのちょっとだけ我慢すればすむことです。
「すぐにやんでしまう夕立」くらいに思って、やりすごしてしまいましょう。

それでも我慢できないという人のために、こんな話を紹介しましょう。

アメリカの心理学者ジェームズと、デンマークの心理学者ランゲの説によると、
「人間は面白いから笑うのではなく、笑うから面白いという感情が湧いてくるのだ」
といわれます。
たとえ最初は演技であっても、大きな声で笑っているうちに、本当に面白く思えてくるかもしれません。

あるいは、いつもイライラしながら部下を叱りつけている上司よりも、おやじぎゃくで上機嫌になっている上司のほうが扱いやすいと考えては、どうでしょうか。

人間関係ワンポイント:愛想笑いでやりすごし相手の上機嫌をキープします。
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人見知りする人でも、交友関係は広げられる [コミュニケーション]

知人から、「私は一人っ子として育ったせいか、人見知りしがちです」と言われました。

たしかに、家族というのはひとつの社会ですから、兄弟がいれば必然的に、ほぼ同世代とのコミュニケーションが生まれます。

一人っ子では子どものころに、少なくとも家庭内では父母以外の人とコミュニケーションがなく、人見知りをするようになるのかもしれません。

あるいは、女子高から女子大に進み、社会人となった女性のなかには、「どうしても男性に対して人見知りしてしまう」と話す人もいます。

しかし社会人であれば、あなたが人見知りする人でも、新しい人間関係を築いていくことが求められます。
逆に、相手が人見知りする人であったなら、なんとかコミュニケーションがとれるよう、配慮する必要があるでしょう。

人見知りをする人は、知り合いを通じて新しい友達を紹介してもらったり、親しい友人と一緒に行動してもらったりしながら、交友関係を広めていくといいでしょう。

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一方、人見知りをするという相手に心の扉を開いてもらうためには、どうしたらいいでしょうか。

じつは、「共通の話題や認識を見つける」というのが最善策です。
たとえば、相手が「私は人見知りするもので」と言ったとしたら、
「私、子どものころ、極端なあがり症で授業参観の日なんかに指されると、声がひっくり返っちゃったりして」

などという話をしてみましょう。
相手も、

「じつは私も・・・。それで、いまだに初めての人と話すのが苦手で」と一歩、近づいてきてくれるはずです。

ワンポイント:人見知りの人は、友人と一緒に行動して交際範囲を広げていこう。
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勇気にもハードとソフトがある [コミュニケーション]

勇気などという言葉は、今頃はあまり流行らないようである。

若い女性が心に描く理想の男性の特性として、「優しさ」が一番にあげられたりするくらいだから、「勇気ある男性」などというのは、あまり魅力がないのかも知れない。

しかし、よく考えてみると、人間は「優しく」あるためには勇気を必要とすることもあるのではなかろうか。

このことを知らないために戸惑っている人もいるように思われる。

ある五十歳代の男性が次のように言われたことがある。

それまでは仕事の方にほとんど心を奪われていて家庭のことを顧みることなどまったくといってよいほどなかった。

ところが、子どもの問題に端を発して、はじめのうちは子どもが悪いと一方的に非難していたのに、話が逆転してきて、「だいたい、お父さんは、あまりに自分勝手に生きている」などと子どもが言い出し、妻も何となくそれに同調している感じである。

子どもが火付け役のようなもので、子どもの問題と思っているうちに、結局は親の問題、つまり、夫婦の関係の在り方を考え直すべきだと思うようになった。

反省すると、自分は妻がいろいろと苦労してきたことに対して、当然のように思っていたが、これは心から感謝すべきことだ、などと思えてくる。

ところが、礼を言おうとしても、口まで出てきている言葉を吞み込んでしまって、「有難う」とか「よくやってくれるね」などということが言えないのである。

こんなことを話しているうちに、その人は「自分の妻に正面から礼を言うのは、勇気のいることですね」と言われた。

このようなときに「勇気」と言われたので、何だかおかしいと思ったが、よく考えてみると、こういうところこそ「勇気」という言葉がピッタリかも知れないのである。

「勇気」とは恐ろしいとか怖いとか感じることに立ち向かってゆくときに言われることである。

一番わかりやすいのは、戦争のときに命を失うおそれがあるのにもかかわらず、突撃してゆくときなどであろう。

それは見た目にもすぐわかる。

しかし、そのような「突進力」は、勇気のハードの面だけではなかろうか。

やたらに突撃して死んでしまうだけの行為を「勇気」というのを、保留したくなってくるのは、それはハードだけで、ソフトが開発されていないからではなかろうか。

それにしても、妻に礼を言うくらいで、何が「勇気」がいるのかと言われそうだが、それは、その人の生きてきた文化や社会の在り方によって違ってくるだろう。

たとえば、アメリカ人なら、そんなのは日常茶飯事であろう。

しかし、日本の男性で伝統的な生き方にどっぷりつかってきた人は、男が女に礼を言うということは、その人の「人生観」の解体につながるのである。

解体、つまり死の恐怖の伴なうことなのだから、そこに「勇気」が必要なのも当然である。

さて、問題解決のための「ソフト」であるが、それはどうなっているのか。

まず、そのような行為に「勇気」が必要と認識したこと自体が、ソフトの開発の第一歩ではなかろうか。

馬鹿げたことだがやらぬと仕方ない、と思っているのと、「勇気ある行為」と思うのとでは、取り組む姿勢が異なるであろう。

それは、外見的にはやさしいことかも知れない。

しかし内面における対決という点で、それは「恐ろしい」ことなのである。

それは単に「妻に礼を言う」ということではなく、自分の今まで生きてきた人生観や世界観の改変をさえ迫ることなのである。

そこに、内面の機構のあらたな開発、つまり、ソフトが必要になる。

妻に対して正面から礼を言うのが照れくさい、と思う人は、子どもと話をしているときに、「お母さんもよくやっていると思うよ」と言うことができるかも知れない。

あるいは、誰か第三者がいるときは、その人に向かって言うような形で、妻と間接的な対話ができるだろう。

日本の夫婦は二人で会話するのが下手だから、このような「工夫」が必要である。

そのような工夫を考え出してゆくのも、ソフトの開発と言えるのではなかろうか。

しかし、これらのことを行なうにしろ、退避の手段として考えるのではなく、あくまで対決への勇気を支えとして行なっていることが大切で、さもないときは、ちゃちな工夫はすぐに叩き潰されてしまうことだろう。

勇気に支えられていない「優しさ」は、どうしても「弱さ」の方に近づいてゆく。

このために、自分は男らしくて強いと思い込んでいる人のなかには、優しいことを恥と思い込んでいる人もある。

しかし、以上述べてきたことから、優しさにも勇気が必要なこと、あるいは、勇気にもソフトとハードの両面があり、その両面をもっていない勇気は、怒気とでもいうべきものに下落してゆくと思われるのである。
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あがるのはよいことだ [コミュニケーション]

寅さんファンの私は、松竹映画、「男はつらいよ」シリーズを延々観続けている。

何作目かのマドンナ役は樋口可南子。

渥美清や倍賞千恵子らのベテラン陣に混じり、撮影時には彼女は大分あがってしまったとか。

こんなときの山田洋次監督の一言がまことにニクイ。

あがるのはよいことだ」と・・・。

この一言はストレスマネジメントの本質に迫る含蓄がある言葉だ。

昔、来日したカナダ・ストレス研究所のリチャード・アール博士は、東京の経団連会館で開いたセミナーの席上、こう口火を切った。

「いま、皆さんの前で、私はあがっています。

しかし適度にあがること、つまりストレスレベルを上げることで得られるエネルギーを使って、集中して話をすることや、さらには講演をエンジョイすることさえできるのです」

ストレス本来の定義は、何らかの刺激に対し適応しようとするからだのメカニズムだ。

この際、体内に生ずるエネルギーは強力で、一つ間違えば心臓発作や高血圧をひきおこすが、うまく使いこなせば、生産的、建設的に利用することができる。

それにはストレスレベルを一定に保つことが必要で、このレベルより高すぎても低すぎても生産性や創造性は低下してしまう。

先の山田監督の一言は、よい仕事をするためには最適のストレスレベルを維持するのがよいという、ストレスマネジメントの神髄をズバリ言い当てたもの。

「あがってはいけない」と思うことで、よけいな不安を生み出し、不必要にストレスレベルを高めてしまうことが多い。

日常生活や仕事の中であがってしまったときは、まずはあがっていることを受け入れ、ときには楽しむことをおすすめする。

アール博士のように、最初にあがっていることを認めて話のタネにしてしまうのもよし、あがったときの高揚感を味わって楽しんでしまうのもよし。

とにかく、「あがるのはよいことだ」と受け入れてしまうのが先決である。

「あがる」という話を、スポーツを例にしてもう少し続けてみよう。

私もその一人だが、高校野球ファンにとって”甲子園の夏”は楽しみだ。(今はコロナの影響で支障をきたしているが)

一方、球児たちにとっては、日頃の練習の成果を晴れの舞台でとはりきるあまり、意外にも身中の伏兵すなわち、「あがる」という”魔物”に寝首をかかれる結果になりやすい。

ピッチャーが極度の緊張のため、筋肉がこわばり、日頃のむちのようにしなるフォームはどこへやら、コントロールを乱してボールを連発しはじめる。

こんなときは脈も速くなり、これにともない全体の動作のテンポも速くなって、「間」がもてなくなる。

ムキになればなるほど、真ん中に好球を配して痛打を浴び、傷口を広げる。

一方女房役のキャッチャーは、声をかけたり歩みよって「間」をもたせたりする。

また自らの肩を上下させて、しきりに力を抜くように指示を出すが、どっこい、これがなかなかうまくいかない。

生理学的にもストレスレベルが「あがる」と、脳や心臓、あるいは筋肉への血液流入量が増える。

このような場合、米国の生理学者E・ジェイコブソンが考案した「段階的リラクゼーション」という方法が役に立つ。

緊張を逆手にとって、いったん筋肉に力を入れて緊張を強めてから、ゆっくりと力を抜いてみる。

このほうが筋肉がほぐれ、ゆるむという実感をつかみやすい。

具体的には、はじめにまず、両手でこぶしを作って力いっぱい握りしめる。

またはガッツポーズよろしく二の腕に力こぶを作る。

あるいはしかめっ面やひょっとこの顔を作ってみる。

ついで両手のこぶしや二の腕など力の入っている箇所の緊張の感覚を十分に味わってみる。

そのあと今度はゆっくりと力を抜いてみる。

こうすれば緊張とリラックスの両方の感じをつかむことができるようになる。

あなたも緊張して肩に力が入っていると気づいたら、肩から二の腕、両のこぶしにいったん力を入れた後、息を吐きながら脱力してみよう。

力が抜けたらそのまま三十秒ほど目を閉じて、ゆったりした気分を味わう。

それだけで緊張がほぐれるはずである。
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状況変容の努力も必要 [コミュニケーション]

ビリーフさえ変えればすべての問題は解けると思い込んでしまったら、それは精神主義である。

こじつけになることがある。

それゆえ事実そのものに体当たりして、事態の変容を試みた方がよいことがある。

出来事(A)を変えないでビリーフ(とらえ方)を変える方が物理的には楽である。

しかし、場合によっては気休め程度の解決にしかならないことがある。

英会話のできない青年が「英語が話せるにこしたことはない」「英語を話さねばならないということはない、通訳を秘書にできる身分になればよいのだ」と考え方を変える方法もよいが、英会話学校に通うのもいい方法である。

考え方を変えさえすればよいと断じてしまうと、問題との対決を避け精神主義に逃げ込むことになる。

心頭を滅却すれば火もまた涼しと同じ結果になる。

心頭を滅却するより―考え方を変えるよりも―バケツで水をかけた方がより効果的ではないか、と言いたいのである。

具体的に行動を起こすことを面倒がって、こころのなかの文章記述の修正だけに望みを託すのは無精者である。

論理療法のよさは考え方や受け取り方(ビリーフ)つまり認知を変えるだけでなく、行動そのものを変える行動療法の発想も取り入れているところにある。

それゆえに論理療法は(認知・行動療法)の代表例なのである。

例を挙げよう。

Aさんはあるテレビ局からタクシーを拾った。

そのとききわめて不快だったAさんは、運転手に「今、ぼく気分が悪いんですよ。テレビに出たばかりなんですけど、私は半日も費やして結局十五秒くらいしか発言できなかったからなんです」とカタルシス(感情の吐露)をした。

その日私は教育プログラムの座談会に出た。

ほかの先生はすらすら話すのに、Aさんはどの瞬間に割り込んで発言してよいかわからず、あせるばかりで発言できない自分がみじめであった。

時間切れ直前に司会者が水を向けてくれたので、すべり込みセーフで、ひとこと発言するのがやっとであった。

さてこの場合Aさんは「テレビに出なければ食えないわけではない」「テレビで発言できないからといって人生が行き詰まりというわけではない」「テレビで流暢に話せたらそれにこしたことはない」といった具合に、自分を慰めるビリーフを考え出すことはできる。

しかし、そんな気休めは自分を甘やかすだけである。

そこでAさんはこう考えた。

「テレビで上手に話せるようになるまで不快に耐えて、何回でも引き受けよう。そして上手になったら出演をやめよう」と。

似たようなことはよくある。

上司に好かれない、入試に失敗した、運転免許証を持っていないなど。

この場合に「上司に好かれるにこしたことはない」「大学に行かなければならないという法律はない」

「運転免許証がないからといって生きられないわけではない」とビリーフを変えて、気持ちをたてなおそうとするのはいかにも負け犬の遠吠えを連想させる。

そんなことよりも、いかにして上司と折り合いをよくするか、どうしたら入試にパスするか、どうしたらライセンスがとれるかと工夫する方が、積極的であり生産的である。

状況(A)を変えるための作戦を練る方がよい。

つまりハウツーを考えるのである。

たとえばアルバート・エリスはエレベーター恐怖症の人には「一日二十回エレベーターに乗れ。それを三十日続けよ」と指示して、A(エレベーターに乗れないという出来事)を変えようとする。

この課題を強引に遂行させているうちに「エレベーターは思ったほどこわくはない」というふうにB(ビリーフ)が変わってくるのである。

B(ビリーフ)が変わるとC(感情、エレベーター恐怖)が変わる。

要するに受け取り方、考え方、ビリーフ、文章記述が変わると悩み(感情)が消えるのである。

そのためには自問自答(思考)することと、実際体験を重ねることが大切である。
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ビリーフが悩みの源泉 [コミュニケーション]

感情は思考の産物である。

思考とは心の中の文章記述である。

ゆえに悩みがあるときは、悩みを生み出しているビリーフ(受け取り方)を発見することである。

思考タイプの人、感情タイプの人ということばがあるので、いかにも思考と感情は相互に独立した別物のように思いがちである。

しかし、そうではない。

悲しい、不快、腹立たしい、イライラ、絶望感、憂鬱といった感情は、当人が何らかの文章記述をはっきりと意識してはいないが心の中で唱えているから生じているのである。

たとえば数年前私はいやな感じを久しぶりに味わった。

それは私の専攻分野に関するある会議に声をかけられなかったからである。

お呼びでない、というあの体験である。

すでにおわかりのように私の心の中には「私に声をかけるべきである」「私を無視すべきではない」「その問題について私は専門家である」といった文章記述があったからである。

こういう文章記述がなければ多分さほどいやな感じはしなかったと思う。

しかし、考えているうちに私は文章記述が変わってきた。

「もし私が会議に出て意見を言ったばかりに、じゃあお前がやれと指名される公算は大である。

すると私は仕事と責任がふえて閉口したにちがいない」と。

そしてこうも考えた。

「アメリカの病院長は医者ではなく、文系のアドミニストレーション専攻の人がなることがある。
同じように私と専攻のちがう人が会議に呼ばれることもありうつことである」と。

ところでこうした文章記述というのは意識のすぐ下にひそんでいるから、じっと考えているうちに浮かび上がってくる。

精神分析を受けないと発見できないしろものではない。

いわゆる潜在意識(あるいは前意識)に潜んでいるものである。

したがって精神分析のように無意識界を夢分析などで探索するほど大袈裟なものではない。

先日も路上で出会った学生が「ぼくデートのあとすごく疲れるんですが」という。

君、心の中でどんな文章を唱えているの?

と問うた。

ちょっと考えてから彼は答えた。

「私は彼女に好かれねばならない」と。

「うん、そうだ。ところで君、どうしたら彼女に好かれると思うの?」

「彼女に話を合わせれば彼女は私を好いてくれるはずだ」というのが彼の文章記述であった。

「そうかなあ。ぼくはちがう考えだ。君ねえ、女性というものは自分の意見を持っている男性を頼もしく思うことの方が多いよ。

自分に合わしてくれる男でないといやだという女性がいたら、相当支配的な人だよ。

君は終生、その女性のしもべになる覚悟はできているのかなあ」といった調子で私は駅まで彼と付き合った。

こんな具合に潜在意識にある文章記述は比較的思い出しやすいものである。

ただし、感情が生じるたびにいちいち文章記述を思い出す必要は全くない。

いい音楽だなあと感動しているときに、さて文章記述はと考える必要はない。

幸福なときは幸福にひたればよい。

幸福を味わうとよい。

自分を不幸にする感情におそわれたときにだけ、どういう文章記述に支配されているかを発見するわけである。

自分を不幸にする感情のもとになっている文章記述を発見したならば、その文章記述のどこがおかしいかを吟味し修正する作業に入る。
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役割交感 [コミュニケーション]

自分が自分をどう思っているかということが、対人関係の中身を左右するといったが、相手をどう思っているかということも、対人関係の中身を左右するのである。

これは常識でわかることである。

たとえば彼は軽薄な人間だというイメージがあるから、そのていどのつきあいをすればよいと思うわけである。

しかし、自己イメージが、自分でも気づいていないあるがままの自分を無視して構築されていることが多々あるように、相手に対するイメージも、実は私たちの気付かない、あるがままの彼自身を無視してつくられているのかもしれない。

だとしたら彼に対して申し訳ないことである。

そこで、どうしたら彼のかくされた部分に気付き、あるがままの彼に少しでも近い評価(イメージ)を構築できるであろうか。

まず第一が役割交換法である

意識的に相手の身になって彼の言動をとってみることである。

例をあげよう。

私の教育心理学のクラスで二人の女子学生にロールプレイ(寸劇)を演じさせたことがある。

ひとりには「家出した娘」、もうひとりには「家出した娘の母親」という役割を与えた。

このふたりが会話をするのである。

さて、ロールプレイがすんでから、「家出した娘の母親」を演じた女子学生がいうのに、「私は今まで、自分の母親は口うるさい女だと思っていましたが、今さっき母親の役割を演じているうちに母親の気持ちがわかってきました」と。

あるいはこんなこともあった。

ある研修会の世話人がもうひとりの世話人とけんかを始めた。

休憩時間に大きな声でやりあっている。

女性世話人が男性世話人にくってかかっている。

「あなたはワンマンだ、私に相談もせず研修を進行させている。私の立場がないではないか」と。

男性世話人は「君がぼんやりしているから、君の分まで俺がしてやっているんじゃないか、俺はむしろ君にお礼を言われてしかるべきだと思っている」と反論している。

私は間に割って入った。

「君たちふたりは、さっきぼくが教えた役割交換をしろ。君はワンマンの男性世話人A君になれ。君はぼんやり者の女性世話人B子さんになれ。よし、ではさっきのけんかを続けろ」

こんどはけんかのスピードがぐんと落ちた。

AはBの気持ちを推論しながら語るから、考え考えけんかする。

約十分もけんかしたら、AとBはにっこりして「このくらいにしよう」と握手した。

彼らの悟ったことは、相手の気持ちがよくわからないくせに、自分のことだけ主張しあっていたということのようであった。

私はカウンセリング研究会では、ふたり一組にしてロールプレイをさせる。

たとえば「君は通勤がいやになった万年ヒラ社員になれ」「あなたは離婚しようかしまいかと迷っている主婦になれ」「君はお膳をひっくりかえす亭主になれ」「勉強ぎらいの生徒になれ」という具合である。

学業不振で学校が嫌になった高校生になりきってものを言っているうちに、だれでも、だんだんそういう生徒の気持ちがわかってくるのである。

すると今まで「連中はしようがない奴らだ」と思っていたのに、親近感がもてるようになる。

いちどゆっくり連中と語ってみよう、はたして僕の想像したとおりの心境かどうか検証してみたい、そう思うようになる。

なかには、「私は品行方正・学業優秀だったのでなまけ学生の役は演じられない」「私は夫婦円満なのでお膳などひっくりかえしたことがない。

だからそんな亭主役は演じられない」という人がいる。

これは想像力貧困である。

こういう人はふだんから、こういう生徒、こういう亭主とよく会話して、この人たちがどんな気持ちかよく勉強することである。

本など読むよりずっと効果がある。

以上の方法は二人一組の役割交換法である。

もっと手軽にできるのは、一人二役による役割交換法である。

たとえば部長とけんかした課長が、自分の部屋で次のように会話をすすめるのである。

椅子をふたつ向けあっておく。

ひとつを部長用、他を課長用にする。

喧嘩してきたばかりの課長はまず、課長用の椅子に座し、部長の椅子に部長が座っていると仮定して、いいたいことをいう。

言い終わったら、今度は部長の椅子に座り部長になりきって、課長の椅子に課長が座っていると仮定して、ものをいう(その課長とはつまり自分のことである)。

この会話を続ける。

ということは、課長はこのふたつの椅子の間を行ったり来たりする。

実際に音声を出して一人二役の芝居を演じる。

観衆はいない。

したがって恥も外聞もない。

お互いにいいたい放題を言えばよい。

そのうちに、けんか相手の気持ちをよく理解していなかったことに気付くこともあるし、思いがけない考え方にふれることもある。

夫が一人で夫(自分)と妻の二役を演じて会話する、教師が教師(自分)と生徒の二役を演じて会話する。

相手が誰であってもよい。

ふれあいがもちたくてももてないときに、この要領でひとり芝居をするのである。
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