状況変容の努力も必要 [コミュニケーション]
ビリーフさえ変えればすべての問題は解けると思い込んでしまったら、それは精神主義である。
こじつけになることがある。
それゆえ事実そのものに体当たりして、事態の変容を試みた方がよいことがある。
出来事(A)を変えないでビリーフ(とらえ方)を変える方が物理的には楽である。
しかし、場合によっては気休め程度の解決にしかならないことがある。
英会話のできない青年が「英語が話せるにこしたことはない」「英語を話さねばならないということはない、通訳を秘書にできる身分になればよいのだ」と考え方を変える方法もよいが、英会話学校に通うのもいい方法である。
考え方を変えさえすればよいと断じてしまうと、問題との対決を避け精神主義に逃げ込むことになる。
心頭を滅却すれば火もまた涼しと同じ結果になる。
心頭を滅却するより―考え方を変えるよりも―バケツで水をかけた方がより効果的ではないか、と言いたいのである。
具体的に行動を起こすことを面倒がって、こころのなかの文章記述の修正だけに望みを託すのは無精者である。
論理療法のよさは考え方や受け取り方(ビリーフ)つまり認知を変えるだけでなく、行動そのものを変える行動療法の発想も取り入れているところにある。
それゆえに論理療法は(認知・行動療法)の代表例なのである。
例を挙げよう。
Aさんはあるテレビ局からタクシーを拾った。
そのとききわめて不快だったAさんは、運転手に「今、ぼく気分が悪いんですよ。テレビに出たばかりなんですけど、私は半日も費やして結局十五秒くらいしか発言できなかったからなんです」とカタルシス(感情の吐露)をした。
その日私は教育プログラムの座談会に出た。
ほかの先生はすらすら話すのに、Aさんはどの瞬間に割り込んで発言してよいかわからず、あせるばかりで発言できない自分がみじめであった。
時間切れ直前に司会者が水を向けてくれたので、すべり込みセーフで、ひとこと発言するのがやっとであった。
さてこの場合Aさんは「テレビに出なければ食えないわけではない」「テレビで発言できないからといって人生が行き詰まりというわけではない」「テレビで流暢に話せたらそれにこしたことはない」といった具合に、自分を慰めるビリーフを考え出すことはできる。
しかし、そんな気休めは自分を甘やかすだけである。
そこでAさんはこう考えた。
「テレビで上手に話せるようになるまで不快に耐えて、何回でも引き受けよう。そして上手になったら出演をやめよう」と。
似たようなことはよくある。
上司に好かれない、入試に失敗した、運転免許証を持っていないなど。
この場合に「上司に好かれるにこしたことはない」「大学に行かなければならないという法律はない」
「運転免許証がないからといって生きられないわけではない」とビリーフを変えて、気持ちをたてなおそうとするのはいかにも負け犬の遠吠えを連想させる。
そんなことよりも、いかにして上司と折り合いをよくするか、どうしたら入試にパスするか、どうしたらライセンスがとれるかと工夫する方が、積極的であり生産的である。
状況(A)を変えるための作戦を練る方がよい。
つまりハウツーを考えるのである。
たとえばアルバート・エリスはエレベーター恐怖症の人には「一日二十回エレベーターに乗れ。それを三十日続けよ」と指示して、A(エレベーターに乗れないという出来事)を変えようとする。
この課題を強引に遂行させているうちに「エレベーターは思ったほどこわくはない」というふうにB(ビリーフ)が変わってくるのである。
B(ビリーフ)が変わるとC(感情、エレベーター恐怖)が変わる。
要するに受け取り方、考え方、ビリーフ、文章記述が変わると悩み(感情)が消えるのである。
そのためには自問自答(思考)することと、実際体験を重ねることが大切である。
こじつけになることがある。
それゆえ事実そのものに体当たりして、事態の変容を試みた方がよいことがある。
出来事(A)を変えないでビリーフ(とらえ方)を変える方が物理的には楽である。
しかし、場合によっては気休め程度の解決にしかならないことがある。
英会話のできない青年が「英語が話せるにこしたことはない」「英語を話さねばならないということはない、通訳を秘書にできる身分になればよいのだ」と考え方を変える方法もよいが、英会話学校に通うのもいい方法である。
考え方を変えさえすればよいと断じてしまうと、問題との対決を避け精神主義に逃げ込むことになる。
心頭を滅却すれば火もまた涼しと同じ結果になる。
心頭を滅却するより―考え方を変えるよりも―バケツで水をかけた方がより効果的ではないか、と言いたいのである。
具体的に行動を起こすことを面倒がって、こころのなかの文章記述の修正だけに望みを託すのは無精者である。
論理療法のよさは考え方や受け取り方(ビリーフ)つまり認知を変えるだけでなく、行動そのものを変える行動療法の発想も取り入れているところにある。
それゆえに論理療法は(認知・行動療法)の代表例なのである。
例を挙げよう。
Aさんはあるテレビ局からタクシーを拾った。
そのとききわめて不快だったAさんは、運転手に「今、ぼく気分が悪いんですよ。テレビに出たばかりなんですけど、私は半日も費やして結局十五秒くらいしか発言できなかったからなんです」とカタルシス(感情の吐露)をした。
その日私は教育プログラムの座談会に出た。
ほかの先生はすらすら話すのに、Aさんはどの瞬間に割り込んで発言してよいかわからず、あせるばかりで発言できない自分がみじめであった。
時間切れ直前に司会者が水を向けてくれたので、すべり込みセーフで、ひとこと発言するのがやっとであった。
さてこの場合Aさんは「テレビに出なければ食えないわけではない」「テレビで発言できないからといって人生が行き詰まりというわけではない」「テレビで流暢に話せたらそれにこしたことはない」といった具合に、自分を慰めるビリーフを考え出すことはできる。
しかし、そんな気休めは自分を甘やかすだけである。
そこでAさんはこう考えた。
「テレビで上手に話せるようになるまで不快に耐えて、何回でも引き受けよう。そして上手になったら出演をやめよう」と。
似たようなことはよくある。
上司に好かれない、入試に失敗した、運転免許証を持っていないなど。
この場合に「上司に好かれるにこしたことはない」「大学に行かなければならないという法律はない」
「運転免許証がないからといって生きられないわけではない」とビリーフを変えて、気持ちをたてなおそうとするのはいかにも負け犬の遠吠えを連想させる。
そんなことよりも、いかにして上司と折り合いをよくするか、どうしたら入試にパスするか、どうしたらライセンスがとれるかと工夫する方が、積極的であり生産的である。
状況(A)を変えるための作戦を練る方がよい。
つまりハウツーを考えるのである。
たとえばアルバート・エリスはエレベーター恐怖症の人には「一日二十回エレベーターに乗れ。それを三十日続けよ」と指示して、A(エレベーターに乗れないという出来事)を変えようとする。
この課題を強引に遂行させているうちに「エレベーターは思ったほどこわくはない」というふうにB(ビリーフ)が変わってくるのである。
B(ビリーフ)が変わるとC(感情、エレベーター恐怖)が変わる。
要するに受け取り方、考え方、ビリーフ、文章記述が変わると悩み(感情)が消えるのである。
そのためには自問自答(思考)することと、実際体験を重ねることが大切である。
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