なぜ禁止・命令か―社会化 [人付き合い]
子どもの自主性・自発性を尊重する人は受身的な教育態度になる。
非審判的・許容的雰囲気に人をおいておけば、放っておいても人間は成長する、という考えが戦後の日本の教育を支配した。
見るところ、放っておいても自発的に老人に席をゆずる少年にはならない。
席をゆずるのはどこかでそういう行為が善であると教わったからである。
あるいは、放っておいても自発的に親孝行するものではない。
親孝行な人は、親孝行は善である、とどこかで教わったからである。
すなわち人間の態度(例―偏見)、価値観(例―信仰)、感情(例―義憤)、行為(例―野球)、思考(例―解釈)はいずれも後天的な学習の結果である。
何の刺激もなく放置しておけば、自然と野球選手になったり、精神分析者になったりするわけではない。
教師や親は絶えず禁止・命令・教示(インストラクションの訳語。教えること)をしないことには生徒や子どもを一人前にすることはできない。
一人前になるとは世の中の禁止・命令(現実原則)を身につけることである。
そのプロセスを社会化という。
ところが受容とか共感的理解とか愛とか赦しという美名のもとに、ニコニコしているだけでは、わがまま者、世間知らず、非常識の人間に育てあげる率が高い。
社会化はできない。
ではニイルやロジャーズやルソーやエレン・ケイの唱えた自由主義、個人尊重思想は否定さるべき思想なのか。
否定さるべき思想ではないが万能の思想ではない。
こういう思想は抑圧的、権威主義的文化に人間が押しつぶされそうな時代においては意味がある。
つまり自分の考えや感情を殺して生きてきたので、抑圧から解放することによって自分を取り戻せるからである。
ところが今の時代は違う。
いくら管理主義の時代だといっても封建時代や軍国主義時代にくらべるとずっと自由である。
したがってこういう時代に唱える自由は放縦になりがちである。
本当の自由主義は、他者の迷惑にならない限りにおいて自分のありたいようなあり方をする権利があるという思想である。
それゆえに、生徒や子どもが他人の迷惑になる言動をとった場合、教師や親は間髪を入れずに「禁止・命令」する方がよい。
でないと現実原則を学習しないからである。
ニイルは現実原則に反した行動を児童がした場合に放置しなかった。
自治会にペナルティを決めさせた。
ルソーは子どもがガラスを破損しても叱らない。
風が入ってくるので子どもは寒い。
この寒さが子どものペナルティになるというのである。
このように自由といっても、決して手放しのわけではない。
必要ならば現実原則を提示しようという気力を養育者は持っている。
心理療法やカウンセリングを齧った人は、概して受容や共感的理解や非審判的な対応を善とする傾向がある。
しかし、これらが善であるのは、きびしい躾を受けすぎて(現実原則の学習が度をすぎ)自分を殺して環境に合わせすぎた結果、神経症者やぶりっ子、整い過ぎた人、タテマエ主義者、若年寄りになってしまった人を援助する場合である。
こういう人たちには、手綱をゆるめて、自分のしたいようにしてみる経験をさせる方がよい。
それによって自分の原点が発見できるからである。
ところが、幼少期からわがままいっぱいに育った子どもに禁止・命令・教示をひかえると、ますますわがままいっぱいになる。
あるいは非行者に心ゆくまで非行させているうちに非行がなおったという話はきいたことがない(ニイルが盗癖の子どもと一緒に泥棒して、盗癖をなおしたが、それは神経症的非行だったからと思われる)。
非行に対しては現実療法のグラッサーのように、現実原則を前面におし出し、イエスかノーかと迫る方式の方が効果的のように思う。
教育は神経症者への心理療法とは異なる。
現実原則の学習が主になる。
神経症者への心理療法は現実原則の学習解除が主となる。
これを識別しないと、心理学が教育に導入されるにつれ、教育の場がしまらなくなる―いわゆる、教育の荒廃―ということがありうる。
たとえば私がカウンセリングの実習のときスーパーバイザー(アメリカ人の教授)に「ことばの壁が邪魔して・・・」と弁解しようとした瞬間「弁解はするな、下手な英語をフルに使ってやってみろ」と指示された。
これが私の「己を守るにしかず」の気概をつよめてくれた。
あのときファーカー教授が「うん、なるほど。それはそうだ」と指示的に応答をしていたら、私は甘えん坊になったと思う。
相手がおとなでも子どもでも、男性でも女性でも、教育をする側は、ここぞというときには是々非々をはっきり示す勇気と倫理を有しているのがよい。
禁止・命令・教示を権威主義だと思う人がいる。
これは間違いである。
権威主義とは教師が自分の利益のために、理屈に合わないことを、無理にさせる傾向のことである。
生徒や子どもの人生にとって有益で、かつ理屈にかなっていること(実証されていること、論理性のあること)であれば、それは指示・命令したからといって権威主義とはいわない。
医師やナースは患者に「~せよ」「~するな」と禁止・命令するが、これをもって権威主義者だと評する人はいない。
教師、親とて同じである。
非審判的・許容的雰囲気に人をおいておけば、放っておいても人間は成長する、という考えが戦後の日本の教育を支配した。
見るところ、放っておいても自発的に老人に席をゆずる少年にはならない。
席をゆずるのはどこかでそういう行為が善であると教わったからである。
あるいは、放っておいても自発的に親孝行するものではない。
親孝行な人は、親孝行は善である、とどこかで教わったからである。
すなわち人間の態度(例―偏見)、価値観(例―信仰)、感情(例―義憤)、行為(例―野球)、思考(例―解釈)はいずれも後天的な学習の結果である。
何の刺激もなく放置しておけば、自然と野球選手になったり、精神分析者になったりするわけではない。
教師や親は絶えず禁止・命令・教示(インストラクションの訳語。教えること)をしないことには生徒や子どもを一人前にすることはできない。
一人前になるとは世の中の禁止・命令(現実原則)を身につけることである。
そのプロセスを社会化という。
ところが受容とか共感的理解とか愛とか赦しという美名のもとに、ニコニコしているだけでは、わがまま者、世間知らず、非常識の人間に育てあげる率が高い。
社会化はできない。
ではニイルやロジャーズやルソーやエレン・ケイの唱えた自由主義、個人尊重思想は否定さるべき思想なのか。
否定さるべき思想ではないが万能の思想ではない。
こういう思想は抑圧的、権威主義的文化に人間が押しつぶされそうな時代においては意味がある。
つまり自分の考えや感情を殺して生きてきたので、抑圧から解放することによって自分を取り戻せるからである。
ところが今の時代は違う。
いくら管理主義の時代だといっても封建時代や軍国主義時代にくらべるとずっと自由である。
したがってこういう時代に唱える自由は放縦になりがちである。
本当の自由主義は、他者の迷惑にならない限りにおいて自分のありたいようなあり方をする権利があるという思想である。
それゆえに、生徒や子どもが他人の迷惑になる言動をとった場合、教師や親は間髪を入れずに「禁止・命令」する方がよい。
でないと現実原則を学習しないからである。
ニイルは現実原則に反した行動を児童がした場合に放置しなかった。
自治会にペナルティを決めさせた。
ルソーは子どもがガラスを破損しても叱らない。
風が入ってくるので子どもは寒い。
この寒さが子どものペナルティになるというのである。
このように自由といっても、決して手放しのわけではない。
必要ならば現実原則を提示しようという気力を養育者は持っている。
心理療法やカウンセリングを齧った人は、概して受容や共感的理解や非審判的な対応を善とする傾向がある。
しかし、これらが善であるのは、きびしい躾を受けすぎて(現実原則の学習が度をすぎ)自分を殺して環境に合わせすぎた結果、神経症者やぶりっ子、整い過ぎた人、タテマエ主義者、若年寄りになってしまった人を援助する場合である。
こういう人たちには、手綱をゆるめて、自分のしたいようにしてみる経験をさせる方がよい。
それによって自分の原点が発見できるからである。
ところが、幼少期からわがままいっぱいに育った子どもに禁止・命令・教示をひかえると、ますますわがままいっぱいになる。
あるいは非行者に心ゆくまで非行させているうちに非行がなおったという話はきいたことがない(ニイルが盗癖の子どもと一緒に泥棒して、盗癖をなおしたが、それは神経症的非行だったからと思われる)。
非行に対しては現実療法のグラッサーのように、現実原則を前面におし出し、イエスかノーかと迫る方式の方が効果的のように思う。
教育は神経症者への心理療法とは異なる。
現実原則の学習が主になる。
神経症者への心理療法は現実原則の学習解除が主となる。
これを識別しないと、心理学が教育に導入されるにつれ、教育の場がしまらなくなる―いわゆる、教育の荒廃―ということがありうる。
たとえば私がカウンセリングの実習のときスーパーバイザー(アメリカ人の教授)に「ことばの壁が邪魔して・・・」と弁解しようとした瞬間「弁解はするな、下手な英語をフルに使ってやってみろ」と指示された。
これが私の「己を守るにしかず」の気概をつよめてくれた。
あのときファーカー教授が「うん、なるほど。それはそうだ」と指示的に応答をしていたら、私は甘えん坊になったと思う。
相手がおとなでも子どもでも、男性でも女性でも、教育をする側は、ここぞというときには是々非々をはっきり示す勇気と倫理を有しているのがよい。
禁止・命令・教示を権威主義だと思う人がいる。
これは間違いである。
権威主義とは教師が自分の利益のために、理屈に合わないことを、無理にさせる傾向のことである。
生徒や子どもの人生にとって有益で、かつ理屈にかなっていること(実証されていること、論理性のあること)であれば、それは指示・命令したからといって権威主義とはいわない。
医師やナースは患者に「~せよ」「~するな」と禁止・命令するが、これをもって権威主義者だと評する人はいない。
教師、親とて同じである。
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