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認められないとき [人付き合い]

仲間が昇任するのに自分の地位はずっと据え置きのとき、認めてもらえない不満が生じがちである。

厳格に表現すれば、認めてもらえないという出来事そのものが当人を不満にしているのではなく「会社は私を認めるべきである」「認められない人間はダメ人間である」というビリーフ(受け取り方)が人間を不満に陥れているのである。

そこでたとえば、次のように受け取り方を修正してみるとよい。

「認められたらそれにこしたことはない。

しかし人生では、いつでもどこでも誰からでも認められ続けるということは非常に稀である。

その非常に稀なことを追い求めて失意の人生に終わらない方がよい」と。

その稀な体験ができたとしても、それほどに努力して手に入れるほど値打ちがあることだとも言い切れないものがある。

たとえば人に認められると絶えず人に見られるから行動の自由がなくなる。

さぼるにさぼれず、結局「優等生のくたびれ型」になるおそれが高い。

ということは、人の歓心を買うことに人生を費やしてしまう。

自分の人生を犠牲にしてしまうということである。

第二に、認められないという残念さが原動力になって努力するから、やがて人に認められたときにかなりの実力がついている。

それゆえ快適な人生が送りやすい。

背伸びして人の期待に副おうとする苦しさがなくてすむ。

人間は鳴かず飛ばずのときが大事なのである。

こういうふうに自分に語りきかせるのである。

考えが変わると感情が変わり、感情が変わると行動も変わるのである。

ただし決して「人に認められようと思ってはならぬ」と道学者めいたことを自分に要請しないことである。

こういう自戒をする人間が「若年寄」である。

年若くして心理的に老け込んでいる人である。

「人に認められようと思ってはならぬ」という考えは人間の自然性に反するから、無理がある。

幸福な人生はなるべく自然の意志に素直になることである。

人間は教養・学歴・年齢・性別を問わず、誰でも人に認められたいものである。

それが自然である。

健常な人には食欲があるのと同じである。

なぜ人はそれほどまでに、人に認められたいのか。

人に見られるとは「愛でる」ということばが示唆するように、人に好かれているという感覚を呼び起こすからである。

人はなぜそれほど「人に好かれている」という感覚を呼び起こしたいのか。

思うに自己保存の本能があるからである。

人に好かれている感覚は人と一体であるという感覚ゆえ、孤立・孤独・分離という不安が減少する。

自分に百パーセントの自信のある人なら、人に好かれなくても自力で生きていけるという思いがあるから、人に認められないからといって自信喪失や、自己嫌悪には陥らない。

しかしそういう人は多くはない。

人に認められる、認められないということに一喜一憂しているうちに人生は終わってしまう。

それゆえ、結論としてはこう考える方がよい。

「人に認められたいと思うのは当然である。しかし、それよりもっと大切なことがある。

それはこの人生で自分のありたいようなあり方をすることだ。

その結果、人が認めてくれたら、それにこしたことはない。

人に認められなくても、自分が自分に『アイ・アム・OK』といえる人生、つまり自分が自分を受け入れられる人生、自己嫌悪の少ない人生を送れば、まずはよい人生であったといえる」と。
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